僕のしくじり先生。 僕のようにはならないで…。

令和4年7月16日(土) masa です。いつもご訪問いただき、ありがとうございます。

首都圏は戻り梅雨な様子。

ビールの投稿が多めの masa ですが、今回は僕の《しくじり人生》をテーマに投稿したいと思います。

1.小学生までの成育歴

庶民の家に生まれた僕。裕福ではなかったけれど父親が一生懸命に働き、アクシデントも多々ありましたが不自由を感じたことはあまりありませんでした。生まれたころから身体が小さく、背も学年で一番低かった僕です。

幼稚園の頃の冬のある日、事故が起きました。石油ストーブの上に置いていたやかんに入っていた煮立ったお湯。弟と遊んでいて引っ掛けてしまい、大やけどを負い1ヶ月以上入院しました。やけどが治っても一生消えない跡が残ってしまいました。

小学校の頃の将来なりたかった職業は科学者、宇宙飛行士でした。また小学校3年生からスイミングクラブに通わせてもらいましたが、級が上がるにつれてだんだんと練習がきつくなってきました。選手育成コースに上がってからは小さな体では皆についてゆけず、練習をサボることが常態化しました。スイミングクラブから親に連絡があり、スイミングクラブをやめることになりました。根性もありませんでした。

2.中学生の頃

中学校に入学して入部したのは軟式テニス部。先輩のいじめにも遭い、レギュラーをはじめからあきらめていた僕はやはり練習をたびたびサボりました。このことに部長をはじめとする部員たちに体育館の裏に連行され、つるし上げをくらいました。

今思うと軽い気持ちで軟式テニス部に入部しましたが、もっと部活だけではなくやりたいことを考えるべきだったと後悔ばかりの中学生時代でした。

3.高校に入学してから

中学生時代の部活の経験から、高校生になってからはお試しに文化部を覗きましたが、すぐにやめました。

高校生になり、折しも80年代の洋楽ブームが到来し、これに感化され、自分もバンドがやりたくなり、バンドを組むことになりました。担当は今考えるとリズム感が致命的にないにもかかわらず、ドラムを担当しました。スタジオに入って練習することが始まりました。まもなくリーダーでGuitar担当のA君のある言動にヤル気が一気になくなりました。このことをA君がほかのバンドのI君に相談したようです。僕はA君、I君にトイレに呼び出され、「お前、バンドどうするんだ!」と責められ、ショックを受けました。結局バンドを脱退しました。今思うと迷惑をかけたな。

それから弟が使っていた楽器(ベース)をいじるようになりました。

また、学校で禁止されていたバイクの免許(原付)を取得し、ギア付きのバイクでいろいろと走り回りました。

4.将来の進路について

勉強があまり好きではなく、いつもラクしたいと思っていました。本来なら高校生の頃には立てておかないといけない将来のビジョンもあまり考えてしませんでした。そして受験勉強が嫌で大学入試を受けることを避けました。

高校3年生になり、いよいよ何かしらの進路を決めないと迫られて安易に高校卒業後は楽器をやろう!と思い(今思い返すとこれが甘いというか本当にバカでした)、青山レコーディングスクールに入学しようと思い、叔母と親に入学金まで出してもらいました。

ところが、その青山レコーディングスクールに入学するタイミングでスクールが経営破綻し、払った入学金も戻ることなく、無職になりました。

しばらく呆けて暮らしました。ファミコンばかりして過ごしました。

高校生の頃に将来のビジョンをちゃんと考えることもなく、ラクしたいばっかりに安易に選択した結果がコレでした。

今考えると音楽で食べていけるはずもなく、これでよかったのでした。

5.次にどうするか

甘やかされて育ったところもあり、アルバイトも長続きしませんでした。

19歳のある日、高校生の頃から愛読していた漫画雑誌、少年ジャンプに一つの広告が掲載されていました。

それは「東京アカデミー公務員専門学院」の短期講習の広告でした。これをみて公務員試験(高校卒業程度)を受験しようと思い立ちました。それから少しばかりのバイト代で短期講習と通信講習を受けました。

そして受験して一次試験(学科)を通過したのは国家公務員Ⅲ種と地元の地方自治体でした。2次試験は面接試験でした。しかし国家Ⅲ種と地方自治体の2次試験の日が重なってしまいました。ここで僕は地元の地方自治体を受けることを選択しました。世間知らずだった私はリクルートスーツで受験するという常識を知らず、ジャケットにネクタイ、パンツというスタイルで面接試験に行きました。後日、合格発表の掲示板を見に行きましたが、僕の番号があるはずもありませんでした。

そして時代は変わり平成元年となりました。再度公務員試験に臨むことを決めて、東京アカデミー公務員専門学院の夏期講習を受講しました。

受験したのは国家Ⅲ種と東京都Ⅲ類(ちょっと記憶がさだかではありません)、一次試験を通過したのは国家Ⅲ種でした。前回の失敗を踏まえ準備して2次試験(面接試験)に臨みました。結果は合格でした。

6.就職、職業生活とプライベート

外務省、警視庁、厚生省(当時、現厚生労働省)、農林水産省など複数の官庁の3次面接を受けましたが、縁あって採用されたのは科学技術庁(現文部科学省)金属材料技術研究所管理部会計課でした。ここでは物品係に配属されました。担当した業務は研究所で使用する研究用と事務用の消耗品購入発議、物品の検査、帳簿管理でした。

高くなかったけれど自分の給料が入るようになり、実家暮らしで自由なお金ができた僕は家にお金を入れることもなく、好きなことにお金を使っていました。400ccのバイクを新車で購入したりしました。楽しかった時代でした。

ここでの生活でも若かった僕は就職したことに満足し、将来のことも考えていませんでした。貯金や投資などのロクな資産形成も考えませんでした。

研究所が平成5年に筑波研究学園都市に移転することが決まっていました。そのことをわかっていたのかわかっていなかったのか、やっぱり地元を離れて筑波(現つくば市)に行くのが嫌でした。

そこで僕はキャリアアップを考えました。それは公務員試験の上級試験を受験することでした。高校卒業程度公務員試験でもお世話になった東京アカデミー公務員専門学院に仕事終わりと土日の休みに通い勉強に精を出しました。

平成3年度は国家Ⅱ種、東京特別区Ⅰ類、東京都Ⅱ類を受けました。2次試験まで受かったのは国家Ⅱ種。この時は内部でキャリアアップを考えていました。しかし、課長が人事にかけ合うもそれは叶わず…。今思えばほかの官庁に転職しておけばよかった(涙)。

仕切り直しの今から30年前、平成4年度受験したのは国家Ⅱ種、東京特別区Ⅰ類、東京都Ⅱ類。すべて2次試験まで突破しました。3次面接は一番給料の良さそうな特別区Ⅰ類を選択。希望の区役所を5か所書きましたが、第1希望の区役所にはフラれて第2希望の某区役所の3次面接を受け、無事内定・採用されました。

7.転職

平成5年4月1日、某区役所に転職。配属されたのは福祉事務所の身体障害者福祉担当。科学技術庁時代にはなかった区民との接遇。51もの事務事業が本庁から移管され現場は大混乱していました。ひっきりなしにかかってくる電話と区民応対。すぐに僕は疲れて精神的に不安定になりました。そして地元の精神病院を受診、精神安定剤などを処方してもらいました。なんとか仕事にも慣れてきた新人1年目、年度末に同僚と飲みに行った帰りの駅で激しい腹痛と発熱、救急搬送され1週間入院することに…。診断名はウィルス性胃腸炎でした。

そのころ職場の先輩で11歳年上の女性に気に入られ、彼女いない歴=年齢だった僕は初めて女性と付き合うことになりました。その後同棲生活に入ることに…。またも場当たり的で今が楽しければそれでよく、結婚や子供のことを真面目に考えていませんでした。

また、平成3年式の車(スカイラインGTS-t TYPE-m)をローンで購入しました。

身体障害者担当を3年間勤めて人事異動となりました。異動先は本庁の国民健康保険課資格賦課係でした。電話と窓口が忙しい職場でした。担当はシステム担当、委託業務、各種統計、制度改正(介護保険制度)にともなうシステム改修などをやりました。勤務評定は優秀と評価されました。うぬぼれていました。僕は天狗になっていました。私生活と言えば旅行に車の改造にと湯水のようにお金を使い、貯金や投資などの財産形成もしませんでした。

国民健康保険課には6年間在籍し、次の異動先を希望する申告書に一部派遣の職場を書いたところ、課長から『清掃の仕事はどうだ?』と聞かれ僕は承諾しました。

8.発病

平成14年度になり、主任として派遣された先は東京清掃一部事務組合某清掃工場管理課管理係でした。都区制度改革で東京都の職員の中に僕は一人放り込まれました。清掃工場の職場は第1工場、第2工場、不燃ごみ処理センターがあり、先輩職員からは『他の清掃工場の3倍忙しい』と言われました。残業もせず、孤軍奮闘するも次第に疲れてきて体に異変を感じました。また一人の先輩職員とウマが合わず、ストレスが溜まりました。そこに新しく担当した仕事がやってきました。正直その仕事が僕にできるのか不安でした。家に帰宅して犬の散歩しているときに考えました。『負けてたまるか!』と。

しかし、その晩は全く寝付けずに朝を迎えました。辛くてもそのまま出勤しました。僕の様子がおかしいのを見かねた課長が東京都職員共済組合青山病院に無理を言って当日予約を取ってくださり、神経科を受診しました。神経科のドクターに話を聞いてもらい、精神安定剤などを処方してもらい、その日は帰宅しました。神経科には定期的に通院するよう言われました。新しくやるはずだった仕事はウマが合わない先輩職員にやっていただきました。このことに自信喪失し、後ろめたくなりました。あまりにも辛くて通勤電車の中で泣きながら出勤しました。次第に元気もなくなってきて、抑うつ状態になり既存のお薬に加え、抗うつ薬が処方されました。それでも抑うつ状態があまり改善されず、係長から『しばらく休養しますか?』と聞かれ、ドクターに診断書を書いていただき、病欠を取ることになりました。結局2ヶ月程休養し復職しましたが、ボロボロだった僕は仕事のことで係長に怒られました。弱った心が折れた僕はもう職場を異動したいと思い、申告書を書きました。課長と人事の計らいで1年で清掃工場を去ることになりました。

平成15年度になり区役所に戻されました。異動先は某図書館事業係システム担当でした。病気を抱えたまま慣れない図書館業務に職場不適応に陥り、病欠を取ることになりました。2ヶ月くらいの間、休みました。その間に管理係へ課内異動となりました。復職して業務軽減していただき、ゆっくりと仕事に取り組みました。平成16年度になり担当が変わり、施設管理の仕事をしました。ほかの人から比べれば業務量は配慮されていたと思います。うつ状態で辛くても1年間頑張りました。平成17年度になり担当替えになり、歳入などの仕事を担当することになりました。ここで仕事の内容が自分に合わず、不適応になり、抑うつ状態で再び病欠を取り、今度は5か月休みました。とにかく任された仕事が嫌で職場を異動したいと強く思い、労働組合にも掛け合いました。

そして、平成18年度の異動先は本庁の保健福祉部でした。母子保健と成人の各種健康診断の事業を担当する係で忙しい職場でした。このことに面食らって適応できず、また着任早々すぐに病欠、今度は休職することになりました。休職中はゆっくり休みました。転地療養もしました。

抑うつ状態も改善されてきてお薬も減ってきたので、復職を考えることになりました。職場復帰訓練として少しずつ慣らし勤務を開始しました。

この頃、同期だった飲み友達 rio と職場の階段で再会しました。 rio とは区役所初期の頃、よく一緒に飲みに行っていましたが、僕が同棲生活を始めてから疎遠になっていました。

rio に対する恋心が再燃し、一方的に同棲生活を解消した僕。

引っ越しして新生活を始めることになりました。

そして、 rio とお付き合いを始めました。職場は復職となりました。

配属先は公害保健係、大気汚染による気管支喘息患者等の医療費給付担当でした。担当のリーダーは気難しく、よく細かく仕事のことで注意をされました。この人とはウマが合わないと感じ、疲れてきました。1年たって担当替えを希望して事業担当に替わりました。気管支喘息罹患児童の水泳教室などを担当しました。いたらなかった僕は水泳教室の会場で児童に対する安全配慮を怠り、先輩職員に怒られました。同じ年度の気管支喘息罹患児童の転地療養キャンプがあり、2泊3日の出張をしました。そして、キャンプが終わって日常業務に戻ったある日、異常な眠気を感じ、仕事を休みました。泥のように眠る僕を見て rio にクリニックを受診することを勧められました。結果は主治医の判断で「休養を要する」とのことで病欠から2度目の休職処分となりました。休職中は地元から出ずに引きこもって療養していましたが、 rio が時々コーヒーショップにお散歩に連れ出してくれました。1年間ほど休職して復職訓練に入りました。復職後もしばらくは業務軽減の配慮をいただきました。職場に正式復帰した時の担当は大気汚染医療費助成担当でした。窓口に一番近い席で落ち着いて仕事をすることが困難でした。1年間ほど頑張っていましたが、うつ病が再発、3度目の休職処分となりました。とうとう人事課からは「もうあなたは後がありませんよ」と言われました。今度は2年間以上休職しました。給料が入ってこなくなってからは共済組合の傷病手当金だけが頼りでした。わずかな貯金も枯渇し、生活費が不足した僕は銀行からお金を借りてしのぎました。

9.リワークプログラムと復職

休職の期間も限界に近づくなか、市ヶ谷にあるリワーク施設で8週間のリワークプログラムを受けました。リワークでは様々な業種の同じ病気の立場の方と一緒にプログラムを受けました。ここでは本名ではなくアノニマスネーム(ニックネーム)でお互いを呼び、連絡先の交換は禁じられていました。ここでは心理療法やストレスマネジメント、認知療法などを受けました。プログラムの途中、休んでしまい、人事課担当者からキツい注意を受けました。休んだ分プログラムの期間を延長し、リワークを終了し職場復帰訓練に入りました。

10.復職と異動

復職訓練が終了し年度替わりに課内異動となり、母子保健担当になりました。最初は窓口と里帰り妊婦健診費用助成事業を担当しました。子供のいない僕は妊婦さんの気持ちもわかるはずもなく、四苦八苦しました。疲れから年休を当日申請してたびたび休みました。母子保健2年目からは窓口に加え、委託業務、妊婦さんメールサポート事業などを担当しました。しかし、復職したからと言って病気が治ったわけではありません。疲れから休養ルームで休憩することが増えました。このことを上司や人事課に目を付けられて「職務専念義務違反」で「特定職員指導対象警告書」を受けました。人事評価も最低でとても辛い時期でした。

11.四度目の休職

もう、いっぱいいっぱいになり、クリニックへ訴えると「業務軽減を要する」との診断書をいただき、上司に提出しましたが困惑され、業務量の軽減や安全配慮の措置はまったくありませんでした。僕としては体調的にとても仕事ができる状態ではなかったので、クリニックにかかり、再び主治医から「休養を要する」旨の診断書をいただき、上司に提出しました。ただでさえ忙しい係で休養することが決まると係長から無理やり休養することを他の係員に説明するように言われました。同じ係の係員がただでさえ忙しい職場に欠員が出ることで責められるような視線を浴びて僕は何を話したか覚えてないくらい辛い時間でした。

今度は半年間の休職でリワークに入りました。市ヶ谷に通う中、もうダメかもしれないと何度も思いがよぎりました。人事課担当者からは「もう本当に後がありませんよ」と言われてしました。リワークプログラムでは利用者さん同士で交流でき、最後に卒業プレゼンテーションを発表しリワークプログラムを卒業しました。職場に戻り職場復帰訓練に入るも居場所がない感じでした。

12.復職と退職に至るまで

年度替わりに僕は主任から主事への降格を申し出ました。職場復帰して担当した仕事は「里帰り妊婦健診費用助成事業」と「委託業務」「委託業務にかかる補助金申請」でした。人員も削減され、窓口、電話応対をしながらの事務作業。前にも書きましたが復職したからと言って病気が治ったわけではありません。業務量の配慮はされておらず、1人前の仕事が与えられました。主治医から残業を禁止されていた僕は次第に業務が滞るようになってきました。そして仕事をたびたび休み、抱えきれない仕事を前にとっくに限界を超えていました。その年の6月の初めに「辞職願」を提出し受理されました。退職日は6月末日となりました。

こうして僕の27年間の職業生活に一つのピリオドが打たれました。

13.ふりかえり

職業生活では職場不適応となり、病みました。この時点で公務員にこだわらず、こじらす前に早めに決断したほうが良かったかもしれません。しかし、貯金や投資などの資産形成をしてこなかった僕は次の手を打つことができませんでした。つぶしのきかない職業を選んでしまったこと、仕事に忙殺され正常な判断ができなくなったことも理由の一つです。

まず自分あってこその仕事だと思います。また、生活防衛のための貯金や資産形成も必要です。そして職業選択やキャリアに関する将来のビジョンを持つことが必要だったと考えます。読者の皆様におかれましては僕の失敗談にお感じになることがありましたら幸いです。長くなりましたが、この辺で終わりにしたいと思います。

14.後書き

人生100年時代を見据えて…

今は自立(生活)訓練事業所アクセルトライつるみに通所。勉強、読書を通じてこれからの自己投資をしていきたいと考えます。

未来は変えられる。

最後まで長文をお読みいただき、ありがとうございました。

masa

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